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偉大な父のプレッシャーを越えて「自分らしく」 石渡智花さんインタビュー

①ロンドンの美容スクールで挫折

── 智花さんのお父様である潔さんは、美容業界の巨匠とも言える方です。美容の道を志したのは、お父様の影響なのでしょうか?

実は、もともと美容師には興味がなかったんです。ファッションの絵を描くイラストレーターになりたかったのですが、父は後を継いでほしかったようで「一番好きなことを仕事にすると辛いよ。美容の仕事は、ファッションともイラストとも関連性があるからいいんじゃない?」と言われたんです。

それでだまされたと思ってやってみようと、進路を決める高校3年生の頃には、気持ちが変化しました。

── 高校卒業後はどのような進路を歩んだのですか?

父の提案があって、高校卒業後はロンドンの美容スクールに入学しました。ですが、英語のレクチャーに全然ついていけないんです。もちろん並行して英語学習をしましたが、内容を理解しきれていない状態だから実技も全然できなくて……。

さらに荒れた食生活で、胃腸炎になってしまいました。結局、心身ともに辛くなり、入学6カ月後に帰国を決めました。

偉大な父を持ちながら、最初は美容師という職業には興味がなかったという石渡智花さん

②鎌田誠氏の言葉が運命を変えた

── 帰国後は、どのような活動をしましたか?

当時は、父が美容室を4店舗経営していまして、千葉県市川市の本店でスタッフとして働かせてもらうことになりました。振り返ってみると、かなり厳しい環境でしたね。高い技術への妥協がなく、練習漬けの日々。この時期に、美容師としての基礎をみっちり叩き込まれました。

そうそう、サロンで働くのと同時に、お店が休みの日には、シュウウエムラメイクアップスクールに通っていたんですよ。

── ヘアサロンで働くのと同時に、メイクの勉強もしていたのですね。なぜメイクスクールに通うようになったのでしょうか?

実は、私が18歳の頃に、鎌田誠先生(シュウウエムラメイクアップスクール創設者)とじっくりお話をする機会があったんです。

鎌田先生は、これから美容業界をめざす私に「これから美容業界を目指すなら、ヘアだけでなくメイクアップの技術も必須ですよ。自分の世界にモデルを取り込むことで、いい作品がつくれるんです」とアドバイスをしてくれました。

美容のプロならではの真髄ともいえる言葉に、ハッとしましたね。そして、自分の世界観を反映させた作品をつくるために、メイクを学ぶ必然性を感じるようになりました。

その後、再び鎌田先生とご縁があったことから、シュウウエムラのメイクスクールに通うことを決めたんです。

「華やかなメイクが主流だった1980年代。当時はメイクが楽しすぎてのめり込んでいましたね」

③ヘア&メイク修行の日々

── 石渡さんは様々なファッション誌でヘアメイクアップアーティストとして活躍しています。初めて雑誌に携わったのはいつでしたか?

スクールでメイクを学び終わった頃です。

私は昔からファッションに興味があったので、よくファッション誌を眺めていました。その中で毎度心を惹かれたのが、メイクアップアーティスト・永倉雅之さんが手がけるメイクです。

「永倉さんの仕事現場を生で見たい!」と強烈に思いました。周囲の人たちにも私の願いを宣言していたら、本当にチャンスが巡ってきて、永倉さんの仕事場にお邪魔することができたんです。

プロフェッショナルの仕事はとても素晴らしかったです。その後日、なんと永倉さんからお電話があり、雑誌撮影のアシスタントをしてほしいと依頼されました。

このような経緯で、普段はサロンで髪を切り、お店が休みの日はメイクアップのアシスタントをするようになりました。

── ヘアとメイクの両方ができることは、強みだと感じますか?

メイクが得意な美容師というのは強いと思います。なりたいイメージを叶えるために、メイクアップは欠かせない要素ですから。

そもそも専門スクールで習うメイクアップ術はクリエイティブ要素が強く、サロンに足を運ぶ一般のお客さまには縁遠いと思われがちです。でも、それは違うと思うんですよね。

私はメイクアップの訓練で、さまざまなイメージを具現化してきました。なかには斬新なものもありました。でも、メイクのもつ可能性がわかったからこそ、幅広い表現ができるようになったんです。だからこそ、サロンのお客さま向けのTPOに合わせたメイクも得意なんですよ。

美しく独創的な石渡さんの世界観。コスチュームを石渡さん、ヘアメイクを松木宏紀さん(D.C.T)が担当しました

④華やかなパリコレに魅せられて

── サロンでヘアカット技術を磨きながら、パリ・コレクションでの経験も積んだそうですね。

はい、1988年に初めてロマン・ソランのチームでパリコレに参加しました。

きっかけは、父が参加したドイツ・デュッセルドルフのビューティーコングレスにアシスタントとして同行した後、パリに一人で滞在していた時のことです。オーディションの開催をたまたま知り、ブラシとコームだけ持ってオーディション会場へ向かい、見事合格しました!

その2年後には、タマリスが日本で開催した、当時トップヘアアーティストだったジュリアン氏・ヤニック氏のヘアクルー募集に合格し、再びパリコレに参加。彼らからは、さらに翌年もオファーをいただきました。

── 1980年代から90年代というと、スーパーモデル全盛期ですよね。そんな時代のパリコレというのは、いかがでしたか?

毎日が刺激的でした。サンドイッチをかじりながら、コレクションの会場から会場へ走り回る日々。有名デザイナーやフォトグラファー、メイクアップアーティスト、そして今をときめくスーパーモデルたちとお仕事できたことは最高に幸せでした。

現在はステージやヘアショー用の衣装制作も手がけています

⑤父親の引退をきっかけにフリーへ転身

── 石渡さんはお父様のサロンで技術を磨いた後、フリーランスに転身しています。そのきっかけは何でしたか?

私が24歳の頃、父が大病をして美容業界を引退することになったんです。それで後を継いでほしいと頼まれたんですけど、サロンは大所帯になっていましたし、若かった私には荷が重くて……。

どこかのサロンで雇われて働くという手もありましたが、あの石渡潔の娘である私は、恐縮されてしまう存在なのがわかっていました。だったらフリーのヘアメイクアーティストになるしかないと腹を括ったんです。

── フリーランスのスタート時は、どのようにお仕事を得ていったのでしょうか?

自分のブック(ポートフォリオ)を持って、ひたすら営業しました。当時、広告や出版などクリエイティブな業界の会社情報をまとめた雑誌がありまして、そこに載っている会社へ片っ端から連絡するんです。

ラッキーなことに、父の知り合いで音楽事務所の経営者やファッションショーのコーディネーターをしている方がいて、ご縁からお仕事につなげることができました。

とはいっても、最初から順調に仕事を得られたわけではありません。スケジュール帳が真っ白で、辛い時期が続きました。

「スケジュール帳がスカスカなのが悔しいから、でっかい文字で予定を書き込んでいました」

── フリーランスとしてお仕事をする際、大切にしていたことはありますか?

当たり前ではありますが、毎度きちんと結果を残す仕事をすることです。そうすれば必ずリピートにつながると信じていました。地道にお仕事を続けていき、ようやく軌道にのり始めたのは3年ほど経った頃です。

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